【カラーでコロナ対策】広州での行動制限を振り返る2020/05/01
今回の「非常事態宣言」での行動制限で、
中国の広州市に駐在していた時のことを思いだしました。
1998年~2001年の3年間、
家族で過ごした海外駐在時代のことです。
当時の中国は、経済の急成長真っ只中で、
日本のメーカー、銀行、商社などがこぞって中国での駐在員を
増員していた頃です。
それまでは、いわゆる「中国畑」と言われる外国語大卒などの中国語出身者が、
中国駐在員になっていましたが、その当時はそれには及ばず
全く「中国」や「中国語」とは関係のない社員が増員のために
中国各地に送られました。
私たち家族もその一員でした。
駐在期間の予定は「4年間」。
まだまだ発展途中の広東省広州市への駐在は、
イメージできないことが多く、とても不安でした。
当時2歳になったばかりの息子を連れての駐在生活は、
日本での生活とは全く違ったものでした。
まずは住居。
ホテルの住居棟という中に住むのが一般的でした。
当時、5ツ星だったガーデンホテル(花園酒店)での生活が始まりました。
住居はいくつかの選択肢しかなく、その中に数千名の日本人家族が
集中して住む、という状況です。
ホテルを一歩出ると、ホテル内とは全く違う世界が広がっており、
一人でブラブラと街を歩く、という自由はありませんでした。
安全上のことで、基本公共バスの乗車も駐在員家族には禁止に
近いのが暗黙のルールで、私も一回も公共バスに乗ったことはありませんでした。
地下鉄も当時まだなく、移動は全てタクシーです。
行くところもあまりないので、
お友達が住んでいるいくつかのホテルを点と点でタクシーで移動するという
毎日でした。
こんなに行動に制限がかかったことは、生まれて初めての経験で
最初の半年ぐらいは正直ノイローゼになりそうでした。
元々、自由に歩きまわるのが好きなタイプなのです。
その時の息抜きは、片道バスで3時間で行ける香港への小旅行。
日本と変わらないショッピングやホテルでのアフタヌーンティーなどを楽しんだ後、
広州行きのバス亭近くにあるペニンシュラホテルでチョコレートを買うのを楽しみにしていました。
そして...。
駐在期間が半年か1年ぐらいであれば、このままの生活を続けていたかも知れません。
でも、会社からの言い渡された駐在期間は4年間(実際には3年になりましたが)。
このまま、行動制限のあるホテルぐらしと、時々の香港への逃避の息抜きだけでは
あまりに時間がもったいないと、広州に住んで半年ぐらいで思い始めたのです。
そこから決めたことは、次の2点。
①今いる広州で楽しめることを探す。
②それは知識習得だったり、日本に帰ってから役に立つことをする。
他を見て無いものねだりをするのではなく、
今いる環境を最大限に使って、今しかできないことをする。
と決めたのです。
そこからは、
中国人しか通っていない中国料理学校に半年通って調理師免許を取る。
⇒ 料理師学校の先生からは「日本人の奥さんが通うなんて初めてのことだ。」と
驚かれました。また、料理の技は目で見ればわかるので技術は習得でき、
その上、先生の早口の中国語のお陰で随分と中国語のヒアリング力が伸びました。
この時学んだ飲茶や中華料理を、日本語のレシピに翻訳し、その後日本人の奥様方に中華料理を教えるという行動に出ました。
中国語も、週2回の家庭教師だけでは全く上達しないと考え、
広州郊外の広東外語外貿大学に通い、駐在の間に中級レベルの
HSK(漢語水平考試)6級を取得しました。
大学での宿題が多いので、「学生ではなく子供のいる奥さんが通うのは無理だ。」と
言われていたのですが、こちらも帰国までの半年以上通うことが出来ました。
これらは、きっと日本と同じように自由を享受出来る先進国での駐在だったら
経験できなかったと思います。
行動制限があったからこそ、他に集中することが見つかった。
その後の広州駐在時代は、友達もたくさん出来て本当に毎日が
充実して楽しいものとなりました。
またこの時の発想の転換はその後、帰国してからの子育てしながら、
カラーの資格習得とカラーの仕事をスタートさせる時に応用でき、
とても役立ちました。
行動が著しく制限された時にどのように意識を変え、行動すればいいのか?
20年ほど前のことを思い出して、今後の行動を考えたいと思います。